2011年3月11日、太平洋沿岸に甚大な被害をもたらした東日本大震災。
あれから10年が経ちました。
2018年の夏に当ブログ「東北旅びより」を開設して以降、ずっと東北に根差した活動を続けてきた筆者。
なぜ筆者が東北にこだわり続けるのか?
きっとそれを語る上で、東日本大震災は切っても切り離せない出来事。
- 東北には何もない
- 早く都会に行きたい
今では到底考えられないですが、そんなことを本気で思ってたんですよ。昔は。
そんな自分が、地元について考えるようになったきっかけのひとつが、皮肉にも東日本大震災だった。
もしあの出来事がなければと思う反面、逆にあの経験がなければ…今の僕はいないのかもしれません。
今回は僕が東北にこだわり続けるワケを、震災当時の記憶と共にお届けしていきます。
あの日の出来事
2011年3月11日
2011年3月11日。あの日、僕の地元は津波に飲まれました。
「マグニチュード9.0」「震度7の巨大地震」
「大津波警報」という初めて耳にする言葉。
画面に映る日本列島の沿岸部が真っ赤な太字のラインで彩られた光景。
あのとき高校生だった僕は、ちょうど部活の真っ最中で、足を怪我していたので一人トレーニング室にいました。
次々と勢いよく倒れてくるトレーニング器具の中、足を引きずりながらなんとか外へ逃げ出したことは今でも印象に残っています。
もしかしたらあの時僕は、命を落としていたかもしれない…
そう思うと、こうして生きているのが本当に不思議です。
2011年3月12日
自宅に帰ったのは次の日の深夜。
水道、電気、ガス…すべて絶たれた家の中で灯る、懐中電灯の小さな光。
リビングの扉を開けて家族全員の顔が確認できた時は、安堵の気持ちでいっぱいになりました。
その日の夜ごはんは、ちょうど前の日に買っていたシュークリーム1個と、肉団子1個。
きっとあの味は死ぬまで忘れることはありません。
2011年3月2×日
津波の被害状況をちゃんとこの目で見たのは、震災から数日後のこと。
その光景を見た瞬間、もう…何も言葉が出ませんでした。
ほんの少し前まで、本当にここに街があったんだろうか?
そう思ってしまうほどまっさらに、メチャクチャになっていました。
ズタボロになった鉄橋。海水が浸る土地。
ヘリコプターと風の音だけが響く、かつての街。
「小さな頃、この道よく通ったな。」
「そういえばこの前、ここの商店のおばちゃんと話したな。無事だといいな。」
本当に不思議ですよね。
姿形が全部メチャクチャになっていても、ふと横を見ればだいたい何があったか分かってしまうんです。
本当にこれは現実なんだろうか?
自分はなんて無力なんだろうか?
そんなことを思いながら、ただただ、まっさらになった景色を眺めることしかできませんでした。
「ブログを続ける意味はここにある」と確信した瞬間
時は経ち大学4年生。高校1年生だった筆者は、22歳の就活生に。
この年に転機が訪れます。それがブログとの出会いでした。
ブログがきっかけで、北海道&東日本パスを使った東北一周旅行へ出ることに。
この旅行の後も、東北各地を鉄道で周るようになります。
- 東北の魅力を発信したい
- 東北のローカル線の良さをもっと広めたい
そんな思いで続けていたブログですが、いつしか僕の記事を見て
ありがたいことに、そういった声が届くようになりました。
僕のブログを見て、東北まで旅行に来てくれる。観光に来てくれる。
”きっと僕がブログを続ける意味はここにある”
そう確信した瞬間でした。
被災地へ旅行に出向き、現地でお金を使うことだって立派な復興支援です。
それに自分の地元について真剣に知ろうとしてくれる人がいると、やっぱり嬉しいですし。それは多分、他の人も感じてることなんじゃないかなあと。
報道だけでは分からないことがたっっくさんありますから。
このご時世で「旅行にでも来てよ!」だなんて言えないのが苦しいところですが、今すぐじゃなくてもいいです。いつか、ぜひ東北にいらしてください。
美味しい食べ物、きれいな風景、温泉、山ほどありますから。
そしてこのブログが、あなたの東北に興味を持つきっかけになれていたのだとしたら、とても嬉しく思います。
東日本大震災から10年、筆者が東北の”いま”を発信し続ける理由|まとめ
以上、今回は「東日本大震災から10年、筆者が東北の”いま”を発信し続ける理由」という内容でお届けしました。
当ブログ「東北旅びより」を開設して、早2年半。
ありがたいことに、以前よりも多くの方に記事を読んでいただけるようになりました。
微力ながら、これからも東北のために、今できる限りのことをやっていくつもりです。
今後とも、当ブログ「東北旅びより」をよろしくお願いいたします!